- 【主張】原発事故議事録 不作成は国民への裏切り (01/24 03:25)
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2012/01/25 19:01
>邪推はすべて封印して、物証・確証類が出てくるまで温存しておけばよかったのに、と思う。
>そういった邪推は、我々のような市井の野次馬か、あるいはゲンダイ・フジのようなイエローペーパーに任せて欲しいぞ(爆)
確かに、そうですね。
社説に「うがった見方をすれば、」云々はいけない。
うがった見方で【主張】できるのであれば、何でも書けてしまいますね。
うがった見方をすれば、これまでもそうだったんじゃないか、とか。(笑)
2012/01/25 21:00
To izaiza1219さん
こんばんは
>社説に「うがった見方をすれば、」云々はいけない。
>うがった見方で【主張】できるのであれば、何でも書けてしまいますね。
>うがった見方をすれば、これまでもそうだったんじゃないか、とか。(笑)
実際、赤いアカヒは同じことでも、もっと巧妙です。この場合のように、確証がないのに陰謀論を刷り込みたい場合はこんな書き方をするのが、彼等の常套手段ですから。
“対策本部における判断の妥当性は、後日の検証の対象とされるべきだが、その記録がないのでは、十分に国民への裏切りだ。
単なる官僚の怠慢なのか、なんらかの圧力が働いたのか、議事録が残されていないことの理由も含め、国の事故調査・検証委員会などは、この問題に徹底的に切り込むべきだ。”
産経の論説に不足しているのは、朝日のようにサブリミナル効果を狙った文章、ですね。書く能力はあるだろうに、潔しとしないのか、論調が直線的なんですよね。
変化球や曲球も交えたほうがいいんじゃないか、とよく思います。
2012/01/25 21:11
というわけで、最近、産経の「主張」を校閲して校正したい、させろ、もっとマシな文にしてやるぞ、と言いたくなることが結構あります
おこがましい言い方ですが、最近、産経だけでなくどの新聞でも、記事や社説の文章が下手というか、重厚さや雅量が感じられなくなってきました。言い回しが紋切型になっていたり、表現がありきたりだったり。
つらつらと考えると、漢文・古文を含む、古典の素養がなくなりつつあるんだろうな、と思います。あるいは、読者のレベルに合わせているのか。
いずれにせよ、特に漢文調の美文を見なくなりました。
2012/01/25 23:57
>…記事や社説の文章が下手というか、重厚さや雅量が感じられなくなってきました。言い回しが紋切型…
今晩は。同感です。
記事が難しすぎる。義務教育を終えた者なら誰でもラクに読める文章を書くことで、日本の民主化を図るように――。
例の占領当局の指示です。
彼らは進駐してくるとすぐ、新聞記事を材料に老若男女の日本語能力調査を全国的にやるのですが、能力の高さに一驚したらしい。
調査を手伝った金田一春彦氏らの回想に、そんなことが書かれています。
ただ、新聞業界は「なるほどそうだ」と思ったのか、朝日や毎日を先頭に、誰もが読める記事づくりに邁進します。(「邁進する」は、新聞用語だと、「―に努める」「―をめざす」…ですね)
それと、GHQに方向づけられた国語教育の問題があるでしょうね。
しかし、新聞は <事象や意味をやさしい言葉で伝えること>に重きを置きすぎた結果、微妙な違いを正確に伝えることに意を払わなくなってしまった。周辺に長年棲息してきて、そう感じました。
以下は当てずっぽうの印象ですが、使用語数で露伴18万、鷗外15万、漱石10万、三島9万、恆存6万とすると、新聞は今せいぜい2万でしょうか。
蘇峰や秋水、四迷らが書いていた時分は、10万前後を各自 好き勝手に操っていた感じで、逆に言うと、読者は小学校しか出ていなくても、門前の小僧・神前のお嬢で、一葉や紅葉を読んで涙を流せたんですね。
どんな言葉も言い換えられるというのは、言語学的にも間違いなんじゃないでしょうか。置き換えが利くなら、そんな言葉は消えているでしょう。
大仰ですが、新聞が使用語数を限ってきたことは、文化の扼殺に近い。
それに、使用語数を絞れば絞るほど、考えの枠が狭まると云うか、思考自体が幼稚化していく。
とは言え、最大の問題は、元になる考えが在るかどうかでしょうね。
語弊がありそうですが、2000語使うかどうかの staroさんの闊達自在で斬新な、いや、新聞用語だと、伸びやかで生きがよく、切れ味鋭い文章に接すると、問題は語数でないことがよく分かります。
それにしても、社説の文章はつまらないですね。
内容は措くにせよ、文章に感心することは老生も先ずないです。
(自分のことは、もちろん棚に上げてですが...)
2012/01/26 15:44
To izaiza1219さん
>しかし、新聞は <事象や意味をやさしい言葉で伝えること>に重きを置きすぎた結果、微妙な違いを正確に伝えることに意を払わなくなってしまった。周辺に長年棲息してきて、そう感じました。
世間一般でも「教養」「古典の素養」といったものに敬意を払わなくなってきたことと、裏表の関係ですね。
>以下は当てずっぽうの印象ですが、使用語数で露伴18万、鷗外15万、漱石10万、三島9万、恆存6万とすると、新聞は今せいぜい2万でしょうか。
なるほど、たしかに語彙も減ってますね。私は語彙数よりも、レトリックや修辞学といったものに長けた記者が減っていることに着目しちゃうのですが、語彙力はその重要な要素ですよね。
>大仰ですが、新聞が使用語数を限ってきたことは、文化の扼殺に近い。
ある人は「教育の普及は軽佻浮薄の普及である」といい、福田恆存氏は「國語の破壊者は学校と新聞」と糾弾しました。新聞が先導したのか、あるいは世間の後追いなのか。
>とは言え、最大の問題は、元になる考えが在るかどうかでしょうね。
その通りだと思います。新聞記者も「いい子ちゃん」が増えてますから。桐生悠々や石橋湛山のような記者が、今後、出てくるかどうか。あるいは、桐生悠々を保護した長野の小坂一族のような、古きよき時代の資本家・文藝のパトロンが残るかどうか‥‥


by nihonhanihon
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