本日の東日本大震災の政府主催追悼式にご出席された陛下のお姿をTVで拝見し、尋常ならざる感動とともに、既視感に襲われた。それは昭和63年8月15日の戦没者追悼式における先帝陛下のお姿である。
先帝陛下(昭和天皇)は昭和62年に御発病され、昭和63年の夏は那須御用邸で御静養中であったが、「8月15日の戦没者追悼式にはどうしても行かねばならぬ」との思召しでヘリコプターで御上京され、式場に傍目にもわかる、非常に無理なお姿で臨ませられた。今上陛下におかれても、心臓の手術から間もない状況であるにも関わらず、無理を重ねて本日の追悼式に臨まれたのであろう。われわれ国民は、先帝陛下が戦没者を深く悼まれるお姿に感銘を受けたのと同じく、今上陛下が震災の被害者を深く悼まれるお姿にもまた、深く感銘を受けるのである。
「朕はつねに国民とともにある」
先帝陛下と同じく、国民とともに進まれる今上陛下の大御心を目の当たりにして、われらは、改めて切なる心をもって忠誠の意を固めてお誓ひ申し上げる。
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ふだんは実用書とか人生訓とかは、ほとんど読まないのだが‥‥

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実家がお寺でもないのに、30代で某大手都市銀行を退職して、浄土真宗の坊さんになった同級生が、坊さんになった頃に、「絶対にためになるから、読め」 と送ってくれた本である。「俺には縁がないだろう」と思って積読のままにしておいたが、このほどフト思い立って読んでみたら面白かった。
なんで思い立ったのかというと、ヒントは次の2冊にある。これも最近読んだ本である。最後の本は、摘まみ食い状態だけれど。

浜辺陽一郎 「新会社法完全対応版 よくわかる取締役になったら事典」 中経出版
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経営法友会会社法問題研究会 「取締役ガイドブック」 商事法務
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実は、4月から勤務先が出資している中小企業に出向して、名ばかりではあるけれど、取締役に就任することになった。勤務先での職位(ポジション)は変らないし、給与も据え置きなので、世間で言う栄転とか昇進には該当せず、たんなる異動なのだけれど‥‥ 取締役といえば、法的にはイロイロと面倒なポジションである。これから 「善管注意義務」 に縛られるのだ(苦笑)
そんなこんなで、俄にイロイロと勉強中。いろんな経歴の人の寄り合い所帯で、よくわからん部下がウジャウジャできる、らしい。よって、戦前の住友財閥で 「人事の神様」 と呼ばれた田中良雄氏の講話を読む気になったのである。ちなみに、「職業と人生」は、住友銀行(当時)の若手社員を対象とした講話を文章に起こしたもの、らしい。
なにとぞ、俄勉強が役に立ちますように‥‥ これからは、leny さんを師と仰いで見習うことにしよう(笑)
この春に異動することが内定しました、ウワサではメチャクチャ忙しいポストらしいので、「グウタラ管理職」は卒業せなあかんようです。
くっそー(苦笑)
しかし、ますますブログを書くペースが落ちるなぁ。
今朝の産経新聞の2面にこんな記事が出ていた。
本社役員を減俸処分
産経新聞社は、22日付の「正論」欄で天皇陛下のお名前の誤記を見落としたことについて28日、担当役員の処分を決めた。ほかに担当責任者3人を譴責処分とした。
「正論」 は執筆者の名前を見て、読んだり読まなかったりするのだが、「そんな失礼な記事があったっけ?」と思って古新聞入れを漁ってみたら、見つかった。執筆者とタイトルは以下の通りだった。
学習院大学教授・井上寿一 「なぜ今、昭和天皇とその時代か」
この記事はMSN産経のサイトに転載されていて、すでにその箇所は修正されている。まずは修正された後の記事(いまMSN産経にある記事)の該当箇所を引用する。
≪大衆社会の到来で国民と一体≫
第一は大衆社会状況における天皇制である。裕仁皇太子が「平和的、平民的、かつモダンなイメージでマスコミに登場していた」ことと、明仁皇太子の婚約をめぐる「皇室ブーム」は、戦前と戦後の違いを超えて、大衆社会状況に対する天皇制の適応という点で共通している。
(http://sankei.jp.msn.com/life/news/120222/imp12022203060001-n2.htm)
そして、2月22日付の紙面に掲載された記事はこうだった
≪大衆社会の到来で国民と一体≫
第一は大衆社会状況における天皇制である。裕仁皇太子が「平和的、平民的、かつモダンなイメージでマスコミに登場していた」ことと、昭仁皇太子の婚約をめぐる「皇室ブーム」は、戦前と戦後の違いを超えて、大衆社会状況に対する天皇制の適応という点で共通している。
あっちゃー、「明」の字を「昭」と書いちゃったのねぇ‥‥
戦前であれば、「天皇陛下」を「天皇階下」と間違えただけで新聞社の社主・社長・主筆が揃ってお詫びして処分を受けるのが当たり前で、それでも右翼の嫌がらせが一週間ほど続いたもの‥‥ とかいう話を聞いたことがある。それに比べると、世の中が変わって、産経新聞社も良かったねぇ(笑)
しかし。
執筆者の肩書きが、非常に気になる。
学習院大学教授
学習院大学教授
学習院大学教授
学習院大学教授
学習院大学教授
あの学習院かいっ!
産経新聞の本日の記事によれば、 「誤記を見落としたことについて」 とあるから、まず執筆者が書き間違えた、ということだろう。世が世なら、本人および学部長・院長(いまは学長)は責任を取って蟄居・閉門・辞任‥‥ ではなかったか。
乃木大将が学習院長だった時代にこんな事件を起こしたら、どうなったことやら‥‥
なお、2月29日14時の時点では、学習院大学のサイトには、本件については一切何も出ていない。ここでも、「世の中が変わって、良かったねぇ(笑)」 と言っておこう。
しかし、やっぱり産経新聞社の校閲部門の能力は、アカイ朝日と比べると、明らかにレベルが低いと思います‥‥
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このエントリーは、ひとつ前のエントリーの解説を兼ねています。
阿比留記者のブログ「国を憂い、われとわが身を甘やかすの記」の2月26日付エントリー、“「沖縄県民斯く戦へり」の大田中将と野田首相 ”の中に、当初、「大本営海軍次官」 という文言が二箇所ありました。それを私がコメントで、「間違いだから訂正して、私のコメントは削除ください」 と書いたところ、阿比留記者は本文を「海軍次官」に訂正して、さらに私のブログにもコメントを残されました。それが前のエントリーです。
しかし、本日の産経新聞(東京版)の3面に、加納宏幸記者の署名記事 「首相が沖縄初訪問 「お詫び」作戦で事態打開?」(sankei.jp.msn.com/politics/news/120226/plc12022622400009-n1.htm) として阿比留記者のブログと似たような内容の記事が掲載され、その中にまたも 「大本営海軍次官」 という文言がありました。
以下は職場に配達された東京版(たぶん最終版:職場は産経新聞東京本社から徒歩圏内にあるので 笑)の紙面をスキャンしたものです。
・記事全体

・該当箇所の拡大

あぁ、おそかりし由良助‥‥ の気分です(苦笑)
ちなみに、戦時の臨時組織である大本営には陸軍部と海軍部があり、それぞれ、大本営が設置されない平時には、「参謀本部」「軍令部」という常設組織でした。言い換えると、戦時に大本営が設置されると、参謀本部が大本営陸軍部となり、軍令部が大本営海軍部になりました。大本営海軍部の職制は軍令部の職制のままなので、トップの役職名は「軍令部総長」で、ナンバー2は「軍令部次長」でした。いっぽう、政府組織として「陸軍省」と「海軍省」があり、その海軍省のトップは「海軍大臣」、ナンバー2は「海軍次官」でした。
つまり、大本営には海軍次官という役職はありません。「海軍次官」ならば海軍省のポストだし、大本営のナンバー2を意味するなら「軍令部次長」であるべきでした。で、件の大田少将(戦死後、特進して中将になった)の電文の宛名は「海軍次官」なので、産経新聞は「大本営海軍次官」などと書かずに、ただ単に「海軍次官」と書けばよかったのでした。
さすがに、全国紙の本紙の記事で間違えた、となるとブログの格好のネタですよね(笑) 記者もさることながら、校閲部は何をやっていたんだ‥‥ と今ごろ、全国の軍事ヲタ、戦史マニアからのお叱りが産経新聞社のお客様窓口に殺到しているに違いない(爆)
なお、2月27日の17時時点では、上記のMSN産経のサイトも、それから転載された iza! のサイト(http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/547343/)も、まだ「大本営海軍次官」のままです。
MSN産経だけでも、さっさと訂正すればいいのに‥‥
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さすがに、
「大本営海軍次官」
などと書かれると、ガックリきますね。
戦史を語るには、まだまだ精進してもらわないと‥‥ と、「市井のアマチュア戦史マニア」は思うのでありました(苦笑)
ま、当分は、戦史については先達の書かれた書物をヘタにアレンジせず素直に引用して、民主党批判の部分でオリジナリティを出すように、頑張ってほしいものです。
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「言うだけ番長」 とか 「口先番町」 とか 「言うことだけはイッチョ前原」 とか揶揄されて久しい民主党の前原政調会長が、記者会見から産経新聞社を締め出したことに関し、いろんな人がいろんなコメントをしている。その中で私がもっとも注目したのは、以下の発言である。
新党改革の舛添要一代表 「政治家として失格だ。政治家は実績で示すべきだ。菅直人前首相に対しても厳しい批判があったが閉め出したりはしなかった。前原氏は菅氏以下だということを示した ことになりはしないか」
⇒ http://sankei.jp.msn.com/smp/politics/news/120225/stt12022500130000-s.htm
ぶわははははは。
「史上最低の政治家」 、をまたも更新したんですね。
鳩山、菅、そして前原。さすが民主党の代議士だな。
しかし、この発言で思い出した報道写真がある。

“記者会見する菅直人首相。質問を求めて挙手する産経新聞の阿比留記者(左端)に発言の機会は与えられなかった=13日午後、首相官邸(酒巻俊介撮影)”
http://sankei.jp.msn.com/politics/photos/110716/stt11071618010004-p1.htm
たしかに、菅直人前首相は産経新聞の記者を締め出したりはしなかった。ただ単に、無視し続けただけである。
それもまた、どうかと思いますけど、ね(苦笑)
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南京事件に関連して、かつて三笠宮殿下が何か言われていたなぁ‥‥ とフト思い出してググってみたら、「THIS IS 読売」1994年8月号に掲載された、三笠宮殿下へのインタビュー記事が見つかった。たしかにこれは、当時話題になったので掲載誌を購入したっけ‥‥ と記憶が甦ってきた。
というわけで、該当箇所をここに引用。
闇に葬られた皇室の軍部批判
(聞き手 中野邦観・読売新聞調査研究本部主任研究員)
― 最近また南京大虐殺について、閣僚の発言が問題になりましたが、同じような問題が何回も繰り返し問題になるのはまことに困ったことだと思います。三笠宮殿下はこの問題についてどのように受け止められておられますか。
殿下 最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から「新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる」という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体何だったのかという懐疑に駆られました。
また、南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、また、そこに毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。これこそ虐殺以外の何ものでもないでしょう。
しかし、日本軍が昔からこんなだったのではありません。北京駐屯の岡村寧次大将(陸士16期・東京出身)などは、その前から軍紀、軍律の乱れを心配され、四悪(強姦、略奪、放火、殺人)厳禁ということを言われていました。私も北京に行って、直接聞いたことがあります。
日清、日露戦争の際には、小隊長まで「国際法」の冊子をポケットに入れていたと聞きました。戦後ロシア人の捕虜が日本内地に収容されていましたし、第一次大戦の時にはドイツ人の捕虜がたくさん来ていました。彼らは国際法に基づいて保護されていましたから、皆親日になったのです。彼らの中には、解放後も日本に残って商売を始めた人達さえいました。神戸には今でも流行っているパン屋さんやお菓子屋さんがありますね。
まことに畏れ多いことであった‥‥ としか言いようがないですね。ふぅ。
‥‥ という題名の書物がある。板倉由明という民間史家の著作だが、この方はタダの民間史家ではない。陸軍士官学校の卒業生を中心とする旧帝国陸軍将校の親睦団体、偕行社が編集した「南京戦史」に、偕行社の会員以外から参加した唯一の編集委員である。
その「南京戦史」「同・資料集」は、いまでは古本屋にもあまり出回らず、出たとしてもセットで数万円から十万円ほどする。私は、1993年ごろ、「南京戦史」は古本屋でたしか3万円、「同・資料集」は偕行社で定価(2万円弱?)で購入したが、数年前に引越しのためやむなく、神田の文華堂書店に引き取ってもらった。そのとき、2冊で2万5千円という値段がついたのにはビックリした。売値が購入価格の半値以上になるなんて、CDでは経験したことがあったが、書籍では初めての体験だったから。
閑話休題。
その「南京戦史」「同・資料集」は南京事件を研究する者にとっては必須の資料(史料)であるが、研究者でない人には分厚すぎるし、そもそも入手が困難である。だから、その編集者が書いたダイジェスト的な通俗本を読むのが手っ取り早い、ということになるだろう。そこで登場するのが、この 「本当はこうだった南京事件」である。

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上の写真はその本の表紙である。そこにはこう書かれている。
そもそも歴史というものは、「何々が有った」と書かれるものだ。「南京ではそういうことは無かった」では「歴史」にならない。
我々はまず、自己に有利不利とは関係なく、真実を求めて、その時南京で何があったのか、を探求しなければならない。
この著作では、すべて論理的・実証的に事件のディテールを究明した。そのほとんど全てが、「南京事件」が「南京虐殺」ではないことを示していることが、お分かりになることと思われる。
この本が出てからと言うもの、南京事件の研究者の間では、
“そもそも歴史というものは、「何々が有った」と書かれるものだ。「南京ではそういうことは無かった」では「歴史」にならない。”
というフレーズが大流行した。中間派の大将、秦郁彦氏も好んで引用したものである。今でもその余韻は随所に見られる。
ちなみに、私は1990年代の10年間、入手できる範囲の南京事件本はあらかた読み尽くしたつもりである。それこそ、大虐殺派の洞富雄や笠原十九司から、まぼろし派の東中野修道や田中正明・阿羅健一まで。その趣味が嵩じて、「南京戦史」「同・資料集」にまで手を出したという訳であるが‥‥
その中で、やはり波長が合ったのは、秦郁彦・加登川幸太郎、そしてこの板倉由明氏らの「中間派」の論説であった。それは結論ではなく、まず「客観的・実証的な史料批判」から入る論の立て方が、私の好みにあっていたからだ。
そして、この本の巻頭には、やはり「中間派」に属する元防衛庁戦史部の原剛氏が一文を寄せている。その最初の1頁を引用する。
「南京事件」に関する警醒の書 - 推薦の言葉に替えて -
はじめに
本書は、日中戦争の初期に起こった「南京事件」について、著者板倉由明氏が特有の醒めた眼で見て、これを論理的・実証的に論じたものである。南京事件は、いわゆる「南京大虐殺事件」といわれ、現在においても日中間の、喉に刺さった棘のようなものであり、常に話題になる事件である。この棘を抜き取らない限り、日中間の真の友好関係は望みえないと思われるが、本書は、この棘を抜き取るにはどうしたらいいかを探求したものであるといえよう。
30万人の大虐殺を主張して中国に媚びることが、この棘を抜くことにはならない。また虐殺はなかったと主張することも、この棘を抜くことにはならないのである。著者は、棘を抜くためには、まず事実関係を明確にすることであるとの信念をもってこの研究をはじめたのであった。
なお、著者板倉由明氏は、平成11年2月4日、病(C型肝炎)のため本書の上梓を見ることなく永眠された。
いいですねぇ、「まず事実関係を明確にする」 というスタンスが。まさに私の琴線に触れるんですよ、これが。
という訳で、原剛氏が続けて書かれた、この本の内容を端的に表した一文を引用しておく。
“現在においては、相当数の史料や証言によって研究も進み、30万人大虐殺説や虐殺を否定するまぼろし説を主張する研究者はほとんどいなくなった。今や研究の焦点は、虐殺の存否の問題から虐殺の規模・様態・要因の問題に移っている。”
私も祖国を悪し様に言うのは好きではないのだが、さりとて、「南京では虐殺なんかなかった」「すべての行為は正当だ」 などと事実に反することを声高に主張する連中に加担する気にはならない。それは、簡単に論破されてしまい、かえって他国からの謗りを増やすだけに終わる、と考えるからである。
以下は、勝手に私淑している葦津珍彦氏の、「昭和天皇の戦争責任論を駁す」論説である。阿比留記者のブログでの議論に際して、論点を整理し、スタンスを明確にするためにテキスト化することにした。
戦争責任論の迷妄
天皇陛下(昭和天皇)には昨秋(昭和62年)の御発病以来、この夏(昭和63年)は那須で御不例の御老体を御静養中だったが、「8.15の戦没者追悼式にはどうしても行かねばならぬ」との思召しでヘリコプターで御上京、式場に非常な無理な御姿で臨ませられた。陛下がいかに戦没者を深くお悼みなされてゐるかを想うて、国民一般は深く感銘した。しかるに世情の新聞、雑誌、著書には、未だに不合理にして非礼なる「天皇戦争責任論」なるものが横行してゐることは。許しがたい世情といはねばならない。
天皇の戦争責任などとは、いやしくも帝国憲法上は問題にならない。しかし外国の立場から、天皇の御任命になった「帝国政府」に戦争責任があったかどうかは問題となる。占領下の東京裁判いらい、多数国の判事はその判決理由で一方的に日本を犯罪としたが、印度のパール判事は、もっとも精緻に証拠を検討して、日本人被告に、国際法的犯罪なしと断定した。そのパール判決も詳しく研究しないで占領下の征服権力に迎合した文化人言論人が、ただ「日本犯罪」論を騒ぎ立てた。
以後四十年、第二次大戦史が国際的に公表されるにいたって、パール判決以上にもむしろ連合国の対日戦争共同謀議が明らかとなった。米国のルーズベルトは、三選に際しては「自分が大統領となる限り、海外での戦争は断じてあり得ぬことを繰り返して誓ふ」と市民に平和演説をしながら、その時点から密かに軍当局へは、「必戦を期しての戦争準備」に全力投入を命じてゐた。
かれは日本の必死の戦争回避交渉を無視して、大西洋上で対独交戦中の英首相チャーチルと会談して、その熱烈な参戦希望に、同感の意を表した。ただ反戦論者の有力な米議会にたいして、宣戦を承認させることの困難を説明し、最後には「宣戦布告」なしの実戦にふみきる用意までも語っている。これは中国の蒋介石にまでも通報されてをり、蒋介石は、ヒステリカルに早期参戦を要求した。少なくとも昭和16年の10月の時点では、主要連合国の対日戦決意は固まってゐたのが明らかだ。
日本帝国政府は愚かにして、遠謀深慮の謀略を知り得ないで、その謀略をさける賢明な政戦両略を立てる能力がなく、つひにハルノートの挑発によって暴発した。帝国政府が、大戦をさける賢明な政術に欠けて、祖宗以来の国史の上に、かつてない戦禍を蒙り、屈辱降伏におちたといふ意味での「戦争責任」は重いが、対外的な意味での侵略とか、好戦の責任は問題とならない。
帝国政府の責任は、対外的なものではなくして、むしろ対内的なものだ。政府や軍部の責任は重いが、当時の帝国議会は、一般普通選挙によって全国民の選出せる議員をもって構成されてゐた。しかも議会は予算権、上奏権を保障されていて、無能な政府を引退させるにたる力が残されていた。その議員の中には、愚者のみでなく国の前途を憂へた者がないわけではなかったであろう。しかし国を憂へて、仮に否決されても、政戦両略についての上奏を試みた者はない。軍部の法外な圧力をおそれてゐたのが唯一の理由だらうが、それは一身の安きを思うて「義を見て成さざるは勇なきなり」とのそしりをまぬかれない。
これらの事情は、日本人や印度人特有の弁護論ではなく、今では英米の信頼性ある公刊物でも立証できる。ただ上御一人としての天皇についていへば、議会や政府や軍部が、愚かな時に、何故に断然と英明絶倫の御指導と命令をなされなかったのかといふことであらう。しかし、それは陛下にたいして、立憲の君主たることをやめて、全知全能の独裁者とならるべきだったといふにひとしい、無理非礼の論である。
○ ○ ○
大東亜戦争以前の中国との軍事紛争は、国際法でいふ「戦争」ではない。これは日本も、中国も、米英等の列強も、それぞれに思惑と利害があって、国際法上の交戦国としての義務と権利を制約しつつ、軍事行動を長期に渡って継続しつづけた悲史であった。日本が中国に対して、法的に必然と宣戦を布告したのは、米英にたいするのと同時の(昭和)16年12月である。
しかしこの日中の軍事紛争が、大戦の前提となったのは確かである。この紛争は、世紀の大転換期の複雑な問題であった。概していへば日本帝国には、その当時までのアカデミックな「国際法」のみによれば、中国の反日行動を不法とする数々の理由があった。しかし中国としては既存の前世紀以来の「国際法」に基く日本の法的権利そのものが、民族解放の新時代においては許しがたいとの思想的理由があった。
陛下は「東洋の平和」を第一義とする聖旨で速やかなる和平を欲せられたが、それは日中の両当事者間の実務解決に、驚くべき長期を要しても解決しなかった。当時の中国の正統政府は、国民党政府(蒋介石と汪兆銘)であり、日中の和平解決は、いくたびか試みられたが挫折した。
その実務者間の交渉挫折の責任は、公平に見て、日本の側にも中国の側にもあった。日本の軍部が、日清、日露以来の戦勝国としての優越感をもって、その交渉に際して中国の新しいナショナリズムの誇りを傷つける態度を棄て得なかったのは否定しがたい。しかし中国側の第一権力者たる蒋介石の無責任なる進退についても、無視できない。特に昭和13年の和平交渉にさいして国民政府の最高スタッフの会議は、満場一致で停戦和平条件を議決した。この時の党の気流を察してか、蒋は汪に議長をさせて自分のみは旅に出て表決に加はらず、後日になって、党内の直系派閥のみで謀議して、総統一人の独裁権をもって交戦継続、停戦拒否に決した。
当時の中国では、国民党外の在野諸勢力は、共産党にせよ西南勢力にせよ、すべてが抗日徹底を主張し、蒋介石軍を主力として戦はせ、自らは傍系軍として戦力を温存強化してゐた。蒋がここで停戦すれば諸勢力が反蒋で一致して、蒋の政権を維持しがたいものにする。汪兆銘によれば、蒋は、その諸派の策の逆をとり、大陸の地の利によって、ただ戦はずして撤退しつづけ、広大なる国土国民を敵日本の占領下に放棄して、ただ政権に固執したとする。汪兆銘は、これをもって「私的政権保持のために民を犠牲にするもの」として決裂し、日中対等を原則とする和平の道を進み、中道にして斃れた。
事実、日本が米英に降伏した時にも、蒋介石軍は、日本占領地から千里の遠くにあって、武装解除に出て来るのにも、長日月を要する奇現象を呈した。この日中紛争史は、今でも北京と台北と汪派との間に、非常な開きがあって未だ定説が固まってゐない。しかし、蒋も汪も日本の政府に不信があり、軍部には特に反感があったが、日本では天皇陛下をもっとも和平待望論者と見てゐたのは、諸史料によっても証明される。
○ ○ ○
しかし日中の戦闘が悲惨、不幸な大戦の前提となったのは事実である。しかし陛下が、平和を欲せられた事実も否定しがたい。そこで占領以来の「天皇責任論者」は「いかに弁護しようとも、天皇が強大な大権を有しながら、大戦を防ぎきれなかった責任は、決して否定しえない」などと未だに放言してゐる。
何たる暴言であるか。強大国米国のルーズベルトにせよ、英国のチャーチルにせよ、ソ連のスターリンにせよ、ローマの法王にせよ、大戦を防ぎ得た者が、この地上に誰の一人でもあり得たのか。かれらがいかなる「戦争責任」をとったのか。ただ地上において、その責任を日本を天皇のみに求めるとは、無理非礼も許しがたい。かかる非礼の暴説を、社会的に抹消し去ることもできないで今日まで来た。聖上は皇祖皇宗に対して、戦没の国民に対して、「精神的」責任のふかさを痛感して「五内為に裂く」と詔りされた。その御痛嘆の情は、いささかも変らず、御老齢にて御健康不例にもかかはらず、御進退不自由の身をもって追悼式に臨ませられた。
この陛下への非礼の説を全的に絶滅することを得ないで、聖上のお姿を拝するわれらの感慨、切々としてただ涙の流るるのみ。
(『神社新報』昭和63年8月22日、葦津珍彦)
葦津氏のこの小論のポイントは、
・対内的な「敗戦責任」は、「神聖にして不可侵」とされ世俗的な政治権力を行使することがなかった天皇個人には、ない。
・対外的、国際的な「戦争責任」を、他の交戦国の指導者に求めることをせず、昭和天皇ただ一人に求めるのは、無理非礼というものである。
・昭和天皇は、みずからのお勤めとして戦没者の慰霊に真摯に取り組んでおられる。これこそが、日本国の天皇として責任を果たすということなのである。
ですね。神道人として揺るぎのない視座だと思います。


by nihonhanihon
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